道徳の普遍化要請について。

「道徳の普遍化要請がうざい」とこぼされていた方*1がいた。それは、坂東猫殺し*2の件について、はてなでPeter Singerの議論に依拠して批判を試みていた人の一人である。当該エントリーには多くの方がその方をPeter Singerを含む現代功利主義者を代表しているものと看做してコメントがつけていた。彼は以下のように言っている。

この話は以下の2点で批判することが可能である。1は彼女自身に対する批判、2は1の批判が妥当なことである理由と、彼女への道徳的批判を妥当ではないと主張する人への批判だ。

1. 現代の功利主義的道徳から言えば、猫の嬰児殺しは猫の避妊手術よりも悪である。
2. 自らの非道徳性を認めることの道徳性という自己欺瞞的態度に対して道徳的批判は可能である。

「可能である」ということは必ずしも「普遍的である」ということを意味しない(勿論普遍的であるならばそれは可能である)。したがって、普遍化要請に応えねばならない理由が彼には無い。だから「道徳の普遍化要請がうざい」という感想を持つのは妥当と言えなくもない。

ところで、2の点で実際に批判するならば、その批判は、道徳的批判の可能性の現実化であるから、道徳的批判だと言えるだろう。すると、それは一つの道徳的立場を自らの立場として打ち出していることになろう。そう考えることが許されるならば、そのようにして打ち出された立場を正式に撤回すること無しに、そのような立場を採らないことを認めるような振る舞いは、自己欺瞞として、これまた道徳的批判の対象となりうる(批判の自己言及・再帰構造)。

この点、彼は周到であり、批判が可能であると指摘するだけに止まっている。あらかじめ「メタ批判であるから深入りすると泥沼になるので正直なところ突っ込みたくないのだが、敢えて言っておく」というようなことを前もって断った上でである。つまり、彼は自分の道徳的立場というものを一切明確にしないで語っているわけである。なるほど、外在主義を自称するにふさわしい。

ところで、

「殺しという厭なことに手を染めずにすむ」といった言葉には明らかに一般化可能な道徳的判断が内包されており、自らが「厭なことに手を染め」ることが道徳的に正しいことを言外に主張していると言うことが可能である。

における「一般化可能な道徳的判断が内包されている」というのは、その点に対話の可能性があるということである。そこから先は坂東女史(を初めとする「殺しという厭なことに手を染めずにすむ」を繞って考え続ける人々)との対話を実践しなければ進めない。そして、そうした実践を志向するというのは、自らが選び取った行動原則の普遍化を要求することと同義である。

したがって「道徳の普遍化要請がうざい」というのはつまり「他者との対話がうざい」ということである。彼は当該エントリーについて「自分が納得するために書いた」と言っている。要するに、彼は対話を志向していないのである。

でありながら、自らの意見を公表し、ついたコメントにも無視せず応答しているという事実。それが私には大変興味深い。

*1:http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20060901

*2:知人が使用していた今回の騒動の通称。使い勝手がよいので今後使わせていただくことにする。