ちょっと疑問。

私は人が苦手だ。人を前にすると緊張する。人を愛するのが難しい。だから猫を飼っている。そうして人に向かうべき愛情を猫に注ぎ、わずかばかりの愛情世界をなんとか保持している。飼い猫がいるからこそ、自分の中にある「愛情の泉」を枯渇させずに済んでいる。だから私が猫を飼うのは、まったく自分勝手な傲慢(ごうまん)さからだ。

その「愛情の泉」とやらを枯渇させたところで、合法の枠内で生活してれば、少なくとも社会的に何の問題もなく誰からもとやかく言われることなく人生を送れるわけですが。愛情の泉が枯渇すると作家活動が続けられなくなるのだろうか。却ってそのことで作家活動に幅が出そうな気もしますけども。或いは、無生物に向かえば良かったような。Pygmalionismって男だけなんですかね。愛が無くても、十分な収入があれば生きていけます。

追記(2006/09/25 05:54)

そもそも動物飼う人って何で飼うんだろうな。傲慢って言えば傲慢なんですけど、じゃあどうすりゃ傲慢じゃなくなるのかと。何やったって傲慢なんじゃないかと。それにビョーキと言うけれども、人間である限りは多かれ少なかれみんな病気である。で、病気であることは社会的に排除されねばならない存在であることを意味するわけではなく、そこに何らかの、できれば解決されるべき問題があるという程度のことに過ぎない。傲慢と病気は自明の前提である。だから、そういうことしか理由に挙げられないということは、結局「飼いたいから飼っている」以上のことではないのだろうなと思う。ってか、他人と付き合いたいと思って他人と関わろうとするのも、傲慢と病気ゆえって言えちゃうからねぇ。

作家活動してれば食えてたんだから、猫なんか飼わずに一人でタヒチで引きこもって小説だけ書いてればよかったのに。

何かツボに入った。

http://d.hatena.ne.jp/tal/20060918/trackback

さて、この記事にこうやってTBを送ってしまうことはあまり笑えない冗談であるのだろーかw

で、

シャドーボクシングは楽しかったか」と自分に問いたい。

シャドーボクシングであることを自己言及するというこの箇所が素晴らしい。

おとなり日記機能はこういう出逢いを齎してくれるので良いな。

追記(2006/09/25 04:31)

間違って二重にTBを送ってしまった。ますますツボだな。

自由意志について。

http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20060918#1158590710

そう、確かに君が行うすべての行動には、それを必然とするような原因がある……だが、実際には君が、自由にこの原因を原因と決めつけているのだ……。

何度やっても同じになる、同じになることを引き受けるという正にそのことに自由意志が存する。

『カントの法論』が届いた。

カントの法論 (ちくま学芸文庫)

カントの法論 (ちくま学芸文庫)

やはり『空間と身体』の再録本だった。持ってるんだよな、これ。まぁ、持ってない人はこの文庫版を買ってください。しかし、このタイミングで文庫化するというのはかなり戦略的だなぁと思う。

「欲望がある、欲望と呼ばれるものがあるというそれだけの理由で、腰抜けなことをすれば生きることの意味が失われる」。思うに現代社会は、主人の言説にかわる言説として、「生命ほど尊いものはない」という貧弱な原理しか提出できていない。この原理には原理としての力、人々を動かす力がないために、「伝統的価値に立ち返れ」という政治的言説があれほど魅力的に見えるようになる。――Alenka Zupancic

リアルの根拠。

So-net blog:アニマルポリスを誕生させよう!:ポリネシア政府板東氏を訴える閣議決定!!

この記事を読んでいて、杉浦由美子を思い出した。かつて『オタク女子研究 腐女子思想大系』を読んだときの印象が坂東眞砂子と重なったからである。要するに、彼女には対象への愛が無く、ひたすら己の実存を垂れ流すことを商売としているのだ。エヴァ論争のときと状況が同じになるのも当然のことである。その実存に関心が無い者にとっては、それはただ不愉快であるか無意味なものでしかない。「私を見て!」「私を愛して!」という他人にはウザいだけの喚き声にしかならない。つまりはそこには(彼女にも彼女に言及する人々にも)愛が無いのだった。

私は、愛猫家ではないゆえに子猫らを彼女の手から救おうとまったく考えないのと同様に、彼女の恋人でも家族でも何でもないがゆえに彼女をこのビョーキから救おうとは思わない。自分の身内を最優先し身内でなければ無関心でさえある態度を私は容認する。

sympathyを伴う愛こそが本当の愛だとSchopenhauerは言っている。そうでない愛はすべて偽りの愛、すなわち自己愛であると。ならば、彼女に自分との同型性を認めないところに愛は無い。

生物学的な意味ではなく、実存的な意味での「人間」とは、まずは私との同型性を認めうる者でなければならない。この定義では、犬や猫もまた人間であり得る。Peter Singerなどはこの点から人間概念を拡張しようとしている。だが、それは全称命題と単称命題とを(或いは意図的に)混同した主張であるように私には思われる。

私は身内だけを人間扱いする。そうせざるを得ない。対話が成り立たない相手は結局観念的な存在でしかあり得ない。絶えざる関心と対話の持続が対象をリアルにする。愛無き言説はすべて観念論である。

Yahoo!ニュース - 毎日新聞 - <子猫殺し告白>坂東さんを告発の動き…タヒチの管轄政府

だ、そーだ。まぁ、だから何だという話だが。法律について、彼女が無知であったのだとしても、彼女が言わんとしたことは、当該行為が合法か違法かには関係の無いことなのであろうから、それはそれとして素直に裁きを受けるがよかろう。それでまた彼女が悶着起こしたところで、それもまた、だから何だという話であるのだが。それはそれ、これはこれである。議題が異なるのである。

書き手の人物などどうでもよいと思うのだがなぁ。どうも人物中心でものを考える人が多くてかなわんな。

たとえば、殺人事件のニュースを見聞きしたら憤慨する義務が私にはあるのだろうか?私が憤慨しようとしまいと、その殺人者が自らの行為を如何に正当化せんと自らの主張を連呼しようと、殺人が法律上、罪と規定されており、そしてその法律が確かに機能しているのであれば、この殺人者は裁きを受け、刑に服することになる。法律を機能させるのは、直接には、私の仕事ではなく、司法の仕事である。だから、彼女が子猫を殺しているとして、それで憤慨する理由が私にはわからない。いや、誰であれ憤慨したければ憤慨するがいいのだが、私はしない。したくないということではないが、基本的に何の感慨も湧かないのである。

殺人者が自らの行為を如何に正当化せんと連呼した主張を起点に何かネタを展開できそうなら、そしてそれが面白そうなら、展開してみるんじゃなかろうか。で、それは殺人が合法であると主張することには決してならない。そう受け取る奴は馬鹿である。そこでの話と、その殺人者が懲役食らったり死刑になったりというのとは別の話である。それはそれぞれ機会を改めて、もし自分が論じたければ論じればよい話題なのであり、それを論じねばならない義務などまったくない。何故話をゴチャ混ぜにするのだろう。

まぁ、誰しも「自分が話しているのを聞きたい」ということなのかもしらんけれども。

追記(2006/09/23 01:31)

おそらく、私は当初より彼女をネタを振っただけの人としてしか見ておらず、論客として扱わずに考えているから、論客として扱って批判している人と感覚が噛み合わないのだろうな。何故に彼女を論客として扱い得るのか、そのセンスが私にはわからない。

この手の話題でなら、先行する議論はそう易々とは網羅し切れぬほどに溢れている。だから、内容に限って言えば、私は彼女を必要としない。だが、彼女があのようなエッセイを発表しなければ、そしてそのエッセイを私の知人が日記でネタにしなければ、私は自分の考えを今のように編集し得なかったかもしれない。考えは縁起により齎される。その限りで彼女の書いたものには意義があり、文字通り契機となったのである。